| 〜解題〜
1.山路 愛山 ヒトリ言
初出;国民新聞 1914. 2. 15
(1864〜1917)史論家、評論家。東京(江戸)生まれ。
明治25年、民友社に入社し国民新聞記者として活躍する。明治26年1月には、「国民之友」に「頼襄を論ず」を発表し、北村透谷との論争を展開。明治40年以降には大学講師(日本史)にもなる。
「ヒトリ言」(初出「ひとり言」)は「国民新聞」に明治41年6月20日〜大正3年2月15日まで不定期連載された。原稿用紙は27字×24行の松屋製。ただし、1ページ目以降は、用紙の右半分のみを使用し、字数は「国民新聞」掲載の体裁に合わせた18字で統一されている。毛筆を用いてはいるが、くずしてはおらず、一マスに一字ずつ書き込んでいる。
2.幸田 露伴
椀久物語
初出;文芸倶楽部1899.1.「其一〜其四」1900.1.「其五〜其七」
(1867〜1947)小説家、随筆家、考証家。東京(江戸)生まれ。
明治21年「露団々」を執筆し小説家としての活動を開始。『風流仏』『五重塔』『風流微塵蔵』など代表作多数。展示原稿は、「椀久物語」の「其三」冒頭を軸装したもの。原稿用紙ではなく、半紙に筆で書かれており、左側三行目「一々」をのぞき全ての漢字には露伴自身によるルビが付されている。所謂歴史的仮名遣いをまじえた流麗な書体。既に高田信敬教授による詳細な解説(「鶴見日本文学会報」平8、6)があるので、そちらと併せてご覧いただきたい。
3.菊池 幽芳 島原の宿【草稿】
初出;『幽芳歌集』 1939.6 全集未収録
(1870〜1947)小説家、新聞記者。茨城県生まれ。
『大阪毎日新聞』の記者として当時新進作家であった泉鏡花や小栗風葉らに寄稿を求めるなど新機軸の確立に敏腕を振るう一方、自らも「己が罪」「乳姉妹」といった長編小説を次々と同紙に連載、明治30年代に流行した《家庭小説》と呼ばれるジャンルの第一人者として成功を収める。そもそも「島原の宿」という題は、幽芳の古希記念歌集『幽芳歌集』に収められた歌題の一つである。『幽芳歌集』所収の「島原の宿」は、前年(1938年)の5月に三度目の訪問を果した長崎県島原・雲仙の風光や人々にまつわる詞書的な追想、および短歌7首から成り、自筆「島原の宿」(以下、【草稿】)と同一の歌2首が確認できる(「病める刀自」)。
また、旅行後間もなく『短歌研究』(1938.8)に発表した「雲仙詠草」にも【草稿】と同様のエピソードが詠まれていることから、この【草稿】は歌作のための覚書的な文章なのではないかと推察される。であれば、編集者による手入れの形跡が見当たらないことや、縦罫のみの便箋に書かれていることも首肯し得よう。
なお、幽芳は歌人・川田順に師事した。
4.窪田 空穂 物價高し
初出;不明
(1877〜1967)歌人、国文学者、随筆家、小説家。長野県生まれ。
東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業後、新聞記者などを経て早稲田大学文学部国文科の教授となる。
展示原稿の初出は不明だが、歌集「朴の葉」(1920.東京堂)に収められている。歌稿と「朴の葉」とは、振り仮名の有無など異同が多い。連作「物價高し」は早稲田大学赴任前の生活苦を歌ったものであろうか。その困窮ぶりは原稿用紙が幾種類か混じっていることからも伺える。
5.斎藤 茂吉 無敵皇軍
初出;不明
(1882〜1953)歌人。山形県生まれ。
歌人茂吉を語る上で一番に連想されることといえば、子規に発する写生論を発達させ「自然・自己一元の生を写す」という対象の実相に心眼をもって深く観入することを唱えた実相観入の姿勢であるが、展示原稿に並ぶ歌はそれとは程遠い。15年戦争期、軍国主義の蔓延する中で、多くの作家はその一翼を担うように国民全体の戦意を鼓舞するための道具とされた。彼も例外ではなく、画一化された国家思想に埋没し、没個性的・類型的な戦争歌や愛国歌を歌わざるを得ない状況へと追い詰められていった頃の歌だと考えられる。
なお、初出不明としたものの、「無敵皇軍」は昭和17年の作とされており、この当時、昭和17年度中のみの和歌を編輯した『とどろき』という未刊の歌集に収められるはずのものであったと考えられる。
6.鈴木 三重吉 七面鳥の踊
初出;赤い鳥 2巻5号 1919.5.
(1882〜1936)小説家、童話作家。広島市生まれ。小説家。
代表作「千鳥」「桑の実」など漱石門下のネオ・ロマン派の旗手として出発するが、1916年頃から童話作家に転身、教訓的傾向の強い旧来のお伽噺や唱歌を童話・童謡として芸術にまで高めようとする文学運動に着手する。その重要な運動拠点として1918年7月に創刊された『赤い鳥』は、個性尊重と自由主義に基づく童心主義的立場に立った近代的児童文学雑誌であり、また、雑誌編集発行者としての三重吉の資質を開花させることにもなった。
同誌には純文学系の作家による童話も数多く掲載されたが、芥川龍之介「蜘蛛の糸」原稿に三重吉が手を入れたことは特に有名な話である。それは、あくまで子供を中心に据えた編集者・三重吉の配慮であり、送り仮名や仮名遣い、用字において「国語改革者」を自認していた三重吉のこだわりであった。
『赤い鳥』編集を手伝った小島政二郎は、幾度にも及ぶ校正、挿絵の配置や植字工の癖に至るまで注文をつける三重吉に面食らいつつも、「活字が生きものであること」を知ったと回想している。
「七面鳥の踊」は北米原住民に伝わる民話を再話したもので、10行×23字詰の赤い鳥社製原稿用紙にインクで書かれている。
この字数は2段組5号活字で印刷される《童話》欄に合わせて作った原稿用紙と思われる。
三重吉は「私の癖」と題したエッセイの中で、原稿用紙の型・色、字体、ペンの頃合いなど様々な条件が揃わなければ書くことができないと自らの《書くこと》に対する偏執的なこだわりを告白している。
それは《書くこと》が、自身の<いま・ここ>においてなされる一回的な身体行為であることを自覚した創作者、そしてそれらが活字化、出版の過程で変質してしまうことを熟知した編集者の複眼的思考を物語っていよう。
7.長谷川 伸 ある芝居書きは語る
初出;不明、『材料ぶくろ』(青蛙房 1956.4.15.発行)所収
(1884〜1963)小説家、劇作家。神奈川県生まれ。本名、伸二郎。
代表作に『沓掛時次郎』(1928)など。大衆演劇に多大な貢献があった。
『材料ぶくろ』は、「ある芝居書きは語る」「幕あい茶話」「いろいろ抄」「机上の駄弁」の四章仕立てのエッセイ集であるが、展示原稿は「ある芝居書きは語る」の巻頭に置かれた「ニューギニアの『瞼の母』と台詞」と題された部分にあたり、原稿では「『瞼の母』のセリフ」と標題されている。
太目の万年筆による颯爽たる筆遣いで全編にわたり淀みがない。
6枚目の末尾の書き入れ6行は上部に用紙を足して作られているのが珍しい体裁。
ニューギニア方面に出征していた役者加東大介が、終戦後現地で行なった『瞼の母』その他作者の名作もの上演のいきさつから書き起こされて、この作品の成立譚が興味深く綴られている。上記単行本巻末に(昭和二十七年一月)との付記がある。
8.北原 白秋 渓流唱
初出;短歌研究 1935. 3.
(1885〜1942)歌人。福岡県生まれ。
『渓流唱』は白秋の没後一周忌にあたる1943年(昭和18)11月5日に刊行された彼の第9番目の歌集である。そこに収められた歌は、短歌雑誌『多磨』創刊と深い関わりを持つ「多磨歌風」の発端ともなった覊旅の歌が中心となっている。
展示原稿中の6首は、この歌集の冒頭を飾る第1章に収録されているもので、伊豆湯ヶ島温泉淹留中に詠まれた。
晩年の彼は、失明のおそれのあるなか、3年半の間に自然と向き合うための旅行を何度も行ないながら、その途中に発見した生活や風物を詠いつづけている。推敲の跡もなく、字形も整い、流れるように穏やかな様を見ていると、病と闘いながらも慎ましく歌を詠じ続ける歌人の姿が偲ばれる。
9.武者小路 実篤 伝記小説に就て/西鶴のことを一寸
初出;『井原西鶴』( 1939.10.甲鳥書林)
(1885〜1976)小説家、劇作家、画家。東京生まれ。
言わずと知れた白樺派を代表する一人。代表作に「友情」「お目出たき人」等。
「井原西鶴」は『時事新報』(1931.6.6〜8.1)に連載、大衆向けの春陽堂『日本小説文庫』シリーズ第7編として刊行されるものの、実篤には不本意な出来であった。念願かない、河野通勢挿画による「贅沢本」として再刊されたのが甲鳥書林版である。この時、大幅な改稿がなされると同時に、「序」および「伝記小説に就て」「西鶴のことを一寸」が付された。これらは、単なる小説論と西鶴に関するメモ書きにとどまらず、「西鶴」に対する実篤の親和性、そして不遇時代にあった実篤が自身の小説家としてのあり方を西鶴に仮託しつつ吐露した文学論と読むこともできよう。
「伝記小説に就て」7頁目から原稿用紙の裏面が使われ、同じ面に続けて「西鶴のことを一寸」が書き始められている。実篤の文学論と西鶴の人物メモが文字通り同じ原稿用紙に同時的、一気呵成に記されたことが推測でき興味深い。なお、表面には実篤が尊敬してやまない釈迦(「シッダ」)に関する物語の反故とおぼしき文章が記されている。
10.中村 武羅夫 「祭」雑記
初出;北方風物 1巻8号 1946.8.10
(1886〜1949)北海道生まれ。編集者、評論家。
『新潮』記者として多くの功績を残す一方、久米正雄との《私(心境)小説論争》、あるいは政治的目的意識を掲げたプロレタリア文学に対し、文芸の自律性・純粋性を説いた「誰だ?花園を荒らす者は!」など、大正〜昭和に惹起された文学論争の中心人物としても有名。
「『祭』雑記」は彼の出身地、北海道(札幌)の出版社・北日本社発行の月刊随筆雑誌『北方風物』《祭の巻》特集号に掲載。同年、新潮社を退社した中村が、祭に関する様々な書物を参照しつつ、自身の郷愁や民族性に触れたエッセイ。
それは、晩年において戦争協力者という窮地に立たされ、文壇の第一線を退いた者の複雑なノスタルジーの表れと捉えることもできよう。20行×20字詰の松屋製赤罫原稿用紙に毛筆で力強く書かれている。
11.吉井 勇 市井のおもひで
初出;不明
(1886〜1960)歌人、劇作家。東京生まれ。
新詩社・パンの会などで活躍。雑誌『スバル』編集にも携わった。
『酒ほがひ』(1910)が代表的歌集。大正中期以降は歌壇の中心を離れ、独自の歌風を深めてゆく。
展示原稿は、『吉井勇全集』(全6巻 番町書房)未収録の逸文。「酔柿紅酔万太郎酔勇肩並めゆきしむかし恋しも」など一流の歌いぶりで若年への思いを綴る、晩年近い原稿、と推測される。
12. 里見 ク 多情仏心
初出;時事新報1925.12.26.〜1926.12.31.(290回連載)
(1888〜1983)小説家。本名山内英夫、横浜生まれ。
作家有島武郎、画家有島生馬の弟。生後まもない、母の実家の山内家を継ぐことになったが、実父母の膝下で育てられた。
学習院高等科時代に文学グループをつくり、東京帝国大学中退後、明治四十三年「白樺」の創刊に参加した。泉鏡花に作品を称賛されたことをきっかけに親しく接し、師事した。
代表作は『多情仏心』『善心悪心』『安城家の兄弟』『極楽とんぼ』などが挙げられる。展示原稿は代表作の一つである『多情仏心』の一部、「不動堂」十四章である。心理描写の巧みさで、とても35歳の若い作家によって書かれたものとは思えない。
里見 ク 食ひ物からの聯想につれて、おのづと浮かび上がって来る顔、顔、顔
初出;不明
展示原稿はユーモアのセンスに富む作家の暖かい心が溢れている作品である。
「食ひ物からの聯想につれて、おのづと浮かび上がって来る顔」とは、想像力でもって食べ物に人物像をなぞるのではなく、親しい友人や記憶に残る人、其の人たちが過去にあった食べ物との出来事を思い出した話である。一番冒頭に挙げられた泉鏡花、最後に記された有島武郎など、敬愛する師匠と兄に対する思い出が書かれている。「終戦直後云々」の言葉が記されているから、戦後に書かれたものであろう。
13.長与 善郎 錯覚について
初出;不明
(1888〜1961)小説家、戯曲家。東京生まれ。
学習院から東大中退。明治四十四年に、「白樺」創刊一年後に同人に加わる。
代表作は『盲目の川』、『彼等の運命』、戯曲『項羽と劉邦』『青銅の基督』などが挙げられる。
生涯を通じて人道主義と自由主義を標榜した。
展示原稿は改稿が繰り返されていた痕跡が見られ、削除した部分を切り取り、そこに新たに書き直した部分を丁寧に合わせて貼り付けた箇所が多い。または、修正する部分の上に新たに紙を張り、訂正文を書く箇所もある。長与原稿にはよく見られるやりかたでもある。
14.久保田 万太郎 萩一〜五
初出;東京日日新聞1936.8.31.〜9.3.
(1889〜1963)劇作家、小説家、俳人。東京に生まれる。
慶応在学中に教授職に居た永井荷風・小山内薫の指導を受ける。1911年「三田文学」に小説「朝顔」を発表。デビュー当時から下町情緒の美や市井の人々の義理人情を描く独自の文学境を示した。
句集に、『道芝』など。展示原稿は田圃こと沢村源之助の死と告別式そして新盆のいきさつを、萩の生育に重ねて描く。生得の細かな観察眼そしてさりげない心理描写を利かせた流麗な筆遣いの逸品である。
ルビ付の独特な筆触。好学社版全集第4巻(1947)「後記」に「三田小山町で書いた。」とある。
15.佐藤 春夫
魔のもの ただに仰ぎて
初出;「魔のものfolk tales」は、新小説1922.4.
「ただに仰ぎて」は、芸林阨1947.8.
(1892〜1964)詩人。和歌山県生まれ。
1921年(大正10)7月に刊行した処女詩集『殉情詩集』によって詩壇に
確固たる位置を占めるようになった彼は、明治時代の末流詩人であることを自任し、文語・口語を駆使した和漢洋、古典からモダニズムまで、あらゆる詩形をものにした。
また、詩作だけに止まらず、評論・戯曲・小説など文芸のあらゆる面で才能を示している。
展示原稿は掌編小説と詩というジャンルの異なる2作品だが、「魔のもの」の原稿が綺麗であるのに対して、「ただに仰ぎて」には推敲の跡甚だしく、裏面にまで細かい書き込みがあるところを見ていると、まるで詩篇に並ぶ癖の強い独特な文字は、溢れ出る言葉の勢いをそのまま写しつけたかのようである。
それは「僕は僕の中に生きている感情が、古風に統一された時に詩を歌っている」彼が、必死にその瞬間を逃すまいとした痕跡だろう。
16.堀口 大學 詩と訳詩
初出;「木を移して」は、詩苑vol,14 1963.1. 本の手帖vol,6-3 1966.4.に再録。
「わが山」は、パアゴラvol,13 1965.7. 本の手帖vol,6-3 1966.4.再録。
「蝶も詩人も」は、本の手帖vol,6-3 1966.4.
「狩の角笛(新訳)」は、本の手帖vol,6-3 1966.4.
(1892〜1981)赤門の前に生家があり、父がまだ大学生だったことに由来する「大學」という特異な名を持つこの詩人は、『月光とピエロ』に始まる創作詩作よりも、仏文学者としての厖大な翻訳業が知られている。
なかでも、大正14年刊行の『月下の一群』は、いくつもの版を重ねながら多くの読者の支持を得ると共に、上田敏『海潮音』と並び、現代詩へ多大な影響を与えた名訳業である。
展示原稿中に見られるアポリネールの「狩の角笛」は『月下の一群』収録作品であるが、『本の手帖』(1966年四月)にこの原稿の4編が発表される際、大幅に改訳されている。
くわえて、特に注目していただきたいのは、「わが山」である。一読してわかるように、ここには室生犀星、佐藤春夫、そして作者の息子が詠み込まれている。その理由を、1962年に犀星を、64年3月に長男・廣胖(こうはん)を、次いで5月に生涯の友・春夫を喪ったことへの煩悶にあるとするなら、「狩の角笛」中の「忘れよう、忘れよう」というリフレインはその意味の深度を増し、推敲の跡も少なく、マス目をいっぱいに埋めるはっきりとした筆致からも、これらの詩編を一つ所に掲載したことの必然性が窺い知れる。
17. 獅子 文六 粗妻のすすめ
初出;不明(「婦人公論」か?)、『東京の悪口』(1959.10.朝日新聞社)に収録
(1893〜1969)小説家、劇作家、演出家。神奈川県生まれ。本名は岩田豊雄。
劇作、演出活動を続けながら、数多くの中間小説、家庭小説を発表し、その際に獅子文六の筆名を用いた。
原稿欄外に「岩田用紙」とあり、この用紙が獅子文六専用のものであったことが窺える。鉛筆書きではあるものの、訂正は斜線か塗りつぶしで行っている。加筆・訂正は比較的に多い。
原稿10ページ右欄外に押された「婦公」の印から初出誌が「婦人公論」であろうと推測される。
18. 徳川 夢声 相生の松
初出;不明
(1894〜1971)活動弁士、俳優、随筆家。島根県生まれ。
サイレント映画の活動弁士として一世を風靡するが、トーキー時代となった昭和初年代、俳優に転向。
ラジオドラマ『宮本武蔵』『西遊記』などの朗読で絶賛され、戦後にはテレビにも進出、時代に即したメディアを活躍の場とした。常に《話す》ということにこだわり続け、語りの中に独特の《間》を立ち上げる新しい話芸・話術のスタイルを確立した。様々な分野の著名人との対談も多数。
「相生の松」は結婚披露宴のスピーチについて、さながら実演でもしているかのように綴られたエッセイ。
披露宴列席者の表情に気を配りつつ、自分の台詞をカッコにくくって展開させるなど、臨場感あふれる夢声節が原稿用紙上に再現されていると言えよう。10行×20字詰原稿用紙にペンで書かれているが、喋る速度に追いつかないといった筆跡であり、活字になる前の《生きもの》としてのコトバの躍動感が伝わってくる。
19. 川端 康成 東京の人
初出;「北海道新聞」「中部日本新聞」「西日本新聞」 1954.5.20.〜1955.10.10.
(*「西日本新聞」は10.11.完結)
(1899〜1972)小説家。大阪生まれ。
東大文学部に入学後、第六次「新思潮」を刊行。その第2号に載せた『招魂祭一景』で文壇の注目を引いた。代表作に『伊豆の踊子』『雪国』などがある。
展示原稿は、川端作品中、最も長い作品である『東京の人』の一部である(「なんの涙(八)」1954年8月11日の朝刊紙上に掲載。「西日本新聞」は12日掲載か?)。
原稿用紙をみると、その訂正の仕方は独特で、一文一文を丁寧に書き進めているような様子がみえてくる。
20.和田 伝 高座豚
初出;農業朝日1958.5〜8.
(1900〜1985)小説家。神奈川県生まれ。
農民小説の粋と呼ばれ、生地厚木や隣村の綾瀬の土地に密着した創作活動を続け、伊藤永之介とともに「日本農民文学会」を設立した。
展示物の「高座豚」は綾瀬(高座郡)において作出された豚の生育現場に取材した記録物で、後に長編小説「風の道」(1961 新潮社刊)制作に連なった。丹念な筆遣いの原稿である。
21. 川崎 長太郎 顔
初出;婦人公論1954.10.
(1901〜1985)小説家。神奈川県生まれ。
小田原を舞台にした私小説で知られており、代表作は小田原の娼婦街の女たちを描いた「抹香町」が挙げられる。
展示品は青年時代から今まで何度か志賀直哉に邂逅したことを記した散文であるが、志賀直哉に対する憧憬とともに、作者自身が出世するまでの苦労の経歴も窺うことが出来る。
文学を志して上京し、辛酸をなめながら精進し続けた川崎長太郎は、36歳で小田原に戻り、「このところ、十余年、屋根もぐるりもトタン一式の、吹き降りの日には、寝ている
顔に、雨水のかかるような物置小屋に暮らし、いまだに、ビール箱を机代りに、読んだり書いたりしている。」という、海岸の物置小屋に24年暮らした。
『婦人公論』1954年第10号の〈秋季創作特集〉に載せられた際、同じ号に、室生犀星、丹羽文雄、武者小路実篤、円地文子、井伏鱒二などの作品が掲載されている。
22.高橋 新吉 とこよ
初出;詩と批評1967.6.
(1901〜1987)詩人。愛媛県生まれ。
ダダイズムは1920年8月『万朝報』によって日本へと紹介された思潮で、あらゆる諸事物が持つ既存の意味や効用からの脱却(存在論的問題提示)を目指した。
具体的に言えば、シニフィアンとシニフィエの結合それ自体に亀裂を走らせることにより、まったく新しい世界を生みだそうとしたのである。これに受けた彼の刺激は、1923年2月『ダダイスト新吉の詩』へと結実し、数々の詩業は吉行エイスケや中原中也、壷井繁治など多くの文学者に影響を及ぼした。
展示原稿は、筆者66歳の時のものだが、彼の創作詩作の一貫したテーマである「雀」が詠われていることや字形も整い、推敲の跡も少ないことからも、若き頃に形成された精神を還暦を迎えた後も抱え続けていたようだ。
23.大野 林火 作品展望
初出;俳句 臨時増刊 1966.12
(1904〜1982)俳人。神奈川県生まれ。
臼田亜浪の『石楠』で若年から活動、1944年『浜』を創刊、主宰して後進を育てる。1953年『俳句』の編集に携わる。平明で清澄な叙情を発揮する。
展示原稿は、上記『俳句』臨時増刊で慣例の俳句界展望を試みたもの。誌上では、秋元不死男の「作品展望1」のあとに「作品展望2」と銘打って掲載され、水原秋櫻子はじめ新旧の俳人数十名の具体的な作品批評が展開されている。
24. 石川 達三 上告趣意書
初出;小説中央公論1963.1.
(1905〜1985)小説家。秋田県生まれ。
事件や風俗に取材した社会派の作家。昭和10年4月には同人雑誌「星座」に「蒼氓」を発表し、第一回芥川賞を受賞する。また、「生きてゐる兵隊」(『中央公論』1942.3.)では新聞紙法違反に問われ発禁処分を受けた。ブルーブラックの万年筆で書いた独特の書体。
原稿右上には筆者自身によるノンブル(1〜)があり、左上には編集者によるノンブル(3〜)が打たれている。訂正個所には斜線を付し、新たな文言を丸くカコミで記している。全体的には訂正よりも加筆が多い。所々に、編集者による「?」があるのも、石川の字の特異さを際立たせているだろう。
25. 高見 順 女の出発
初出;不明(「オール読物」か?)
(1907〜1965)小説家。福井県生まれ。
プロレタリア文学運動に挫折し転向。昭和9年4月から「日暦」で連載を開始した長編小説「故旧忘れ得べき」が第一回芥川賞候補に選ばれ文壇から注目される。
満寿屋製B5版20字×10行の原稿用紙を使用。訂正個所は少ないものの、直す際は一字一字を塗りつぶし、そのわきに新たな言葉を書いている。漢字や書き間違いの直しが大半を占め、文章自体の訂正や加筆はほとんど見当たらない。「女の出発」は『高見順全集』(勁草書房、1970〜1977)に未収録。
26.大岡 昇平 歴史小説論
初出;『現代文学の発見12(歴史への視点)』(1968.8 学芸書林刊)「解説」
(1909〜1988)小説家。東京に生まれる。
『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』などが代表作。初出本は、シリーズ(全16巻)のうち。第12巻の「歴史への視点」は、江馬修・井伏鱒二・中山義秀・中島敦・坂口安吾・田宮虎彦・井上靖・杉浦民平・大原富枝の歴史小説9編を収める。
筆者の「解説」は、鴎外・芥川・藤村の「歴史小説」の特色の指摘から書き起こし、上記9作の簡潔な解題を行なうものである。末尾において上記作家の昭和十年代以降の歴史ものの展開を述べ、概括として歴史小説の評価が歴史それ自身の評価と芸術的価値の評価の二つの軸からなるという指摘を銘記し、江馬修の傑作『山の民』こそが二つの価値の調和が示されているという趣旨を強調して終わる。推敲の跡は適度にあるが、安定した筆遣いで、人柄をしのばせる。筆者の『歴史小説論』(岩波同時代ライブラリイ47)にも収められた。
27.埴谷 雄高 荒宇宙人の生誕
初出;海 1979.8.
(1910〜1997)小説家。台湾新竹生まれ。本籍は福島県。本名般若豊。
日本共産党員としての活動、地下生活、そして治安維持法による検挙・未決生活などの体験を経て、独特の思考の中から「不合理ゆえに吾信ず」「洞窟」などの著述を発表。戦後に『近代文学』同人となり、大作『死霊』の連載を始めた。このほか『闇の中の黒い馬』(1970)などがある。
展示原稿は、『近代文学』同人(七人の侍)の一人荒正人の死(1979.6.9.)にあたり、「宇宙人」とも戯称された人物の誕生をめぐる筆者との不思議な因縁から説き起こして、本籍地を同じうする島尾敏雄とも思い合わせて、東北人の特性とそれぞれにおける「故郷喪失」の次第を綴る、筆者独特の人物記の一編である。
原稿各所に見るごとく、吹き出し風の書き入れが頻出する息の長い文章。観念小説の作者らしい、重畳たる修辞による文章作りの現場が彷彿する。朱を入れたのは編集者であるが、作家の誤字訂正が散見されるのが興味津々、それでも「自己旅回」などの誤字が残るのはご愛嬌である。
本作は、『天頂と潮汐』(1980)『戦後の先行者たち』(1984)に収録された。
28.湯浅 克衛 一衣帯水
初出;不明
(1910〜1982)小説家。香川県生まれ。
朝鮮半島中部の水原で育ち、処女作『カンナニ』は、朝鮮独立問題に取材する異色作。植民地時代の如上の経験を持つ作者が、1970年にソウルで行なわれた国際ペン大会に出席して、李承晩時代17年間には叶わなかった日本語講演を戦後初めて行なった。この際石川達三・草野心平らとともに各地を回り十数編の紀行文を書いた、そのうちの一編だが、掲載誌は不明である。反日的時代を経て、日本語が復活した感銘を記す。
韓国語の中に入り込んだ日本語や、韓日双方の言葉に共通するボキャブラリイなどを列挙した部分に、筆者固有の感懐が窺えるものである。
29.柴田 錬三郎 水上勉の人と作品(付 水上勉日記)
初出;小説中央公論 1963.12.と推定
(1917〜1978)小説家。岡山県生まれ。
『眠狂四郎無頼控』など。水上勉の小説「桑の子」所載の同号に掲載されるに相応しい親友たる筆者の、水上勉讃である。付載の「水上勉日記」には、acDの三葉があり、そのうちcには、九月**日の日付で、「宇野浩二先生の三回忌」の記事がある。水上勉の師匠たる宇野浩二(1961.9.21没)の菊花好みに連ねた、短文ながら真情籠る一文である。
30.遠藤 周作 戦争の文学をこう考える
初出;『戦争の文学 第8巻』(1965.12.20.東都書房)「解説」
(1923〜1996)小説家。東京生まれ。
12歳でカトリック入信、1950年フランスに留学し、小説を書き始める。
『白い人』で第33回芥川賞受賞。キリスト教的な考えをモチーフにした作品が主流。『深い河』『沈黙』『海と毒薬』『イエスの生涯』『キリストの誕生』『侍』など。
展示原稿は東都書房が出している『戦争の文学』シリーズの第8巻の巻末に掲載されたものであるが、当初の題目が改題され「文学における戦争」となっている。草稿では「社会」の言葉を「場所」に修正し、「いゝ兵士」に傍点を打つなど、作者の繊細な用心が見られる。ただし、出版された解説には、なぜか傍点はない。
第8巻に掲載された作品には中野重治の『第三班長と木島一等兵』、小島信夫の『小銃』、高見順の『ビルマ戦場の草木』、坂口安吾の『白痴』などが見られる。
31.野坂 昭如 少年飢餓地獄からの生還
初出;婦人公論 1967.4.
(1930〜)小説家。神奈川県生まれ。
『エロ事師たち』など。『野坂昭如 エッセイ集 日本土人の思想』(1969.12.中央公論社刊)に「続プレーボーイの子守唄 飢餓地獄からの生還」と題して収録。題材は、長女麻美との雪だるま作りから、新潟への戦争直後の移転のころの飢餓体験、そこからの回復の思い出を綴る。
少年院時代の悲痛な体験を織り交ぜながら、リアルで飄逸な文体を駆使し、筆者独自の表現となっている。
その特有の四角張った大型の文字の中に、習慣化された誤記が見られるのが面白いところ。
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