T竹取と伊勢−古物語の魅力−
『源氏物語』を分水嶺として、それ以前に作られた数多くの物語を「古物語」と呼んでいます。源為憲『三宝絵詞』序によれば、「物語と言ひて女の御心をやるもの、おほあらきの森の草よりもしげく、ありそみの浜のまさごよりも多」くあったらしいのですが、今となっては「物語の出来はじめのおや」と言われる『竹取物語』、歌物語の『伊勢物語』『大和物語』、男性知識人が書いたらしい『落窪物語』『宇津保物語』しか残っていません。そして『伊勢物語』をのぞけば、いずれの物語も古写本に恵まれない状況です。「物語の出来はじめのおや」と言われる『竹取物語』でも、伝後光厳院筆の小さな断簡が最古の本文資料であり、とても珍しい切として知られています。
1 伝後光厳院筆 竹取物語断簡 室町時代前期写
台紙貼1葉 *
小さな斐紙六半切(縦横9.7糎)に9行書写、1行17字程度。古筆別家了任の極札「後光厳院 女そと〔守村〕」を添える。伝称筆者を二条為定(1290〜1360)とする断簡もあるが、通常は後光厳天皇(1338〜1374)の極めが付けられる。書写年代は為定・後光厳院より少し下った室町時代の早い頃であろう。
現存する『竹取物語』では安土桃山時代にさかのぼりうるのが最古であるから、掲出の断簡は抜群に古い。流布本・古本に分けられる諸本の内、大筋では古本に近いが、流布本・古本いずれにも重ならない部分がある。現在10葉ほどの存在が知られている。掲出の切は、内侍「なかとみのふさこ」が天皇の命を受け竹取翁の家を訪ねる場面である。
(参考)絵入竹取物語 茨城多左衛門 江戸時代後期刊 袋綴2冊
古活字版をうけた整版本は、正保3年(1646)林甚右衛門尉により本文のみの『竹取物語』が刊行され、その版木に上下冊各3丁の絵を加えた形で元禄5年(1693)長尾平兵衛版が出る。以後これを繰り返し使用して明治にいたり、結局300年ほど同じ版木を使い続けた。図は、月を見て嘆くかぐや姫(下巻)。
2
伝慈円筆 伊勢物語断簡 鎌倉時代前期写 台紙貼1葉
斐紙四半切(縦23.0、横19.2糎)の右端に綴じ穴痕跡あり、毎半葉7行21字程度に書写した列帖装のオモテ面とわかる。『伊勢物語』第96段前半に相当、定家本系諸本とほとんど差のない本文だが、同時代と思われる朱の書き入れは注目に値する。すなわち「いてにけり」→「身ニ(いて)キタリケレハ」は広本系阿波国文庫本・大島本の特徴を示し、、「一二」→「イトオホク」は独自異文である。慈円(1155〜1225)の筆跡とは認められないけれども、なかなかの能書。鎌倉時代前半の切と見てよかろう。
「慈鎮和尚のもちはかり〔金山〕」の極札は、『色道大鏡』の撰者としても知られる藤本箕山(1626〜1704)のものである。
3
伝兼好筆 伊勢物語断簡 越前切 南北朝時代写 軸装1幅
斐紙四半切(縦25.0、横16.0糎)に9行16字程度、和歌は改行して2字下げ2行書きとする。手沢の状況から見て、丁のオモテ面か。第20段後半?21段冒頭に相当、本文系統は定家本系の武田本に類する。『徒然草』で知られる兼好とは別筆、しかし彼と同時代、南北朝の書写と思われる。近年その書写年次を鎌倉時代弘安年間(1278〜1288)まで引き上げる説も出されているが、なお検討を要するであろう。
一般に物語の断簡は古筆切全体の主要な柱となっていないし、特別な名称を持つものも少ない。その中で掲出の切は早く文化版『古筆名葉集』に「越前切 雲紙四半」と立項された、珍しい例のひとつである。雲紙でない掲出の断簡のような例と雲紙の例とは、ほぼ同数。
(参考)伊勢物語 覆嵯峨本 江戸時代前期刊 袋綴2冊
日本印刷文化史上の名品嵯峨本『伊勢物語』を覆刻、整版ながら古活字版の風趣をよく伝える。慶長13年(1608)刊第2種本イを底本としており、題簽は後補だがわずかに雲母刷り文様の残る表紙は原装のままか。図は第21段、大和の女に紅葉が届けられたところである。
4
近衛政家筆 伊勢物語愚見抄断簡 台紙貼1葉 *
楮紙(縦22.7、横13.8糎)に8行書写、本文の所々に細字の註を持つ。料紙左端に綴穴跡が見えるので原態は袋綴冊子本、丁のウラ面のあたる。畠山牛庵の極め通り、近衛政家(1446〜1505)の筆と認められる。内容は『伊勢物語愚見抄』再稿本系統であるが、筆者の判明する点以上に、書写形式の特異さに注意したい。すなわち通常の諸本では、物語中より難解な語句を抜き出しこれに註を付ける形式であるが、掲出の断簡では本文すべてを書写、註釈すべき語句の下に割註の形で説明を施す。読み進めるのには、断然この方が便利である。ただしこのような書写形式を採る伝本が他になく、近衛政家の創案であるのか、『伊勢物語愚見抄』成立段階に由来するものかは、不明。類似の問題は、『万水一露』(源氏物語の注釈書)でも起こっている。
U源氏物語(本文資料)−様々な書物のかたち−
古典文学の傑作であり国際的な評価も高い『源氏物語』が書かれてから現在までほぼ1000年。一字一字手で写す時代が長く、その過程で『源氏物語』に青表紙本・河内本・別本のおよそ3グループにまとめられる本文が発生し、またさまざまな姿の『源氏物語』が書き写されました。江戸時代初めころに木の活字を使った古活字版や、木版の『源氏物語』が生まれても、決して出版部数は多くなく、近代の大量出版にいたるまで、あいかわらず墨と筆に頼る本作りが続けられたわけです。本の大きさ、紙の質、筆跡などそれぞれに個性豊かな書物の片鱗をお楽しみください。
5 伝藤原為家筆 源氏物語断簡(賢木)河内本 鎌倉時代中期写
軸装1幅
大振りの白斐紙(縦30.3、横26.6糎)は向かって右側5行と左側8行の呼びツギであり、右側が賢木後半桐壺院周忌法要に続く場面、左側が光源氏野の宮訪問。物語の進行に即していないのは、貼り誤りであろう。掲出の断簡に極札はないが、ツレには藤原為家(1198〜1275)の名が与えられており、大略そのころの書写。河内本系の特色である朱の句読点が見え、本文も河内本。この切のように、縦30糎を超える大振りの写本には河内本系統の本文を写すことが多く、書物のかたちと内容との強い結びつきがうかかえる。
(参考)奈良絵本源氏物語(賢木)江戸時代前期写 列帖装1冊
紺紙に金泥装飾の凝った表紙、精良な紙と手慣れた筆跡そして濃彩の絵は、奈良絵本と呼ばれる豪華本の一典型である。図は、失意の六条御息所を野の宮に訪う有名な場面、絵右上方に黒木の鳥居が見える。
6
伝世尊寺行能筆 源氏物語断簡(総角)別本 鎌倉時代後期写 台紙貼1葉
斐楮混漉の六半切(縦16.6、横16.5糎)に10行11字程度書写、ゆったりとおだやかな書風が好まれたせいか、『新撰古筆名葉集』世尊寺行能の項に「六半 源氏」、『古筆切目安』に「六半切 新極ナレトモ出来上」の記事がある。行能(1179〜?)は能書として聞こえ、世尊寺の家名もこの人物より始まる。掲出の断簡は行能と同じかやや下る頃のものであろう。この切のみでは本文系統を判定しえないが、総角・手習約10葉のツレから、別本系本文を写したと推される。
7
今川了俊筆 源氏物語断簡(夕顔)伊予切 応永17年写 台紙貼1葉
楮紙(縦26.7、横8.9、糎)にたくましい筆づかいで3行書写、極札を欠くが応永17年(1410)今川了俊(1326〜1414?)85歳の筆跡である。朱の濁点・句読点も了俊自身が施した。『新撰古筆名葉集』の「巻物切 源氏杉原 中字朱点アリ 老筆」に相当。しかし「巻物」ではなく袋綴冊子本であったことが、蜂須賀家旧蔵のツレ帚木によってわかる(専修大学現蔵)。伊予切はすべて夕顔の巻だと言われたけれども、桐壺の断簡(早稲田大学図書館)も1枚報告されている。
8
伝後小松院筆 源氏物語断簡(夕霧)室町時代後期写 台紙貼1葉
斐楮混漉の六半切(縦13.3、横12.0糎)に8行16字程度書写、墨書き入れは同筆であろう。後小松天皇(1377〜1433)よりは下った室町中〜後期の書写、当館所蔵の源氏物語断簡の内、最も小さい(最も大きいのは5)。落葉の宮をめぐって、夕霧・雲居雁夫婦間に危機が訪れた時の歌のやりとりを写す。朱で「三条上」と書かれるのが雲居雁である。本文系統を考えるには量的に不足だが、2行目訂正前の「うらむる」は河内本・別本に同じ。
9
伝聖護院満意筆 源氏物語断簡(賢木)河内本 室町時代後期写 台紙貼1葉 *
巻物皺のある天藍地紫の雲紙(縦33.3、横18.2糎)に3行書写、料紙と大柄の書きぶりから見て、絵巻の詞書か調度手本であろう。伝称筆者満意(1376〜1465)は二条良基の息、聖護院門跡となり90歳の長寿を保った。掲出の切は満意よりやや下る時期の書写か。賢木の巻、野の宮から立ち去る光源氏の姿を六条御息所が見送る場面。短いながら河内本の特徴がよく現れている。「えこゝろつようもおほしとゝめすなこりあはれにてなかめたまふ」(掲出断簡・河内本)⇔「え心つよからすなこりあはれにてなかめ給」(青表紙本)。
10
伝宗養筆 源氏物語断簡(桐壺) 室町時代末期写 台紙貼1葉
斐紙四半切(縦26.0、横17.2糎)に8行20字程度書写、本文は青表紙本系三条西本に近い。連歌師宗養(1526〜1563)の手とは断じがたいが、同時期のもの。桐壺帝の使いとして二条邸を訪れた靭負命婦が、祖母君と歌を交わす有名な場面である。室町時代の終わりにしては、立派な切と言えよう。
V源氏物語(古注釈)−享受資料あれこれ−
平安時代の終わり頃になると、『源氏物語』は誰でも容易に読める作品、とは言えなくなりました。作者と同時代の人ならばすぐに理解できたはずの和歌の出典・有職故実・風俗や習慣など、説明をしないとわかりにくいところが増えてきたからです。その結果、現在残されている最も古い注釈『源氏釈』を筆頭に、登場人物の系図・引用和歌の一覧・あらすじを知るための梗概書など、汗牛充棟もただならぬ享受資料が、わたしたちの前に残されています。『源氏物語』は、大きな学問の流れの源泉となった点においても、すばらしく豊饒な作品であると言えるでしょう。
11 伝顕昭筆 源氏釈断簡(宿木)
建仁寺切 鎌倉時代後期写 軸装1幅
斐紙(縦15.7、横12.3糎)に8行15字前後書写、左端2?3行を切り取ったらしく、もとの紙幅は15糎以上あった。藤原伊行(?〜1175、建礼門院右京大夫の父)の著した『源氏釈』のうち第二次本の系統であり、伝二条為定筆の前田尊経閣本よりは良質の本文かと推される。顕昭(1130?〜1209?)を伝称筆者とする建仁寺切には、『新撰古筆名葉集』の「六半源氏景図註」と国宝手鑑『見ぬ世の友』所収の切とがあり、掲出の断簡は後者のツレ。顕昭よりは下った、鎌倉時代後期の筆跡であろう。
12
伝宗養筆 花鳥余情断簡(蜻蛉) 室町時代後期写 台紙貼1葉
斐紙四半切(縦26.1、横19.0糎)に13行書写、連歌師宗養の筆跡とよく似ているが、同筆か否か判断に迷うところ。同時代の資料ではあろう。古筆切中の『源氏物語』古注釈ではこの『花鳥余情』が最も多く残されているが、掲出の断簡ほど大柄のものは例が少ない。
13 伝石井了派筆 弄花抄断簡(乙女)室町時代末期写
台紙貼1葉 *
斐紙(縦25.2、横19.2糎)に10行書写、全体に強いヤケが見られ、金箔押しの台紙も大きく残るので、屏風に貼られていたことが判明。極札の大半が失われ、かろうじて「石井」までは読める。他の資料ともつきあわせると、伝称筆者は堺の連歌師石井了派であろう。一条兼良・宗祇の講釈を聞いた牡丹花肖柏は『弄花抄』の原型を作り、三条西実隆に伝えた。実隆はこれを増補し現在の『弄花抄』ができあがる。古筆切としては時代が下るのでさほど注目されてはいないが、『弄花抄』の切はごく稀。
14
伝冷泉為相筆 雲紙源氏古系図断簡 鎌倉時代後期写 台紙貼1葉 *
藍雲紙(縦27.1、横14.2糎)に2条の淡墨界を施し、引き締まった後京極流の書風で系図を写す。古筆了?の極札あり。版本の古筆名葉集には掲載されないが、田中塊堂『昭和古筆名葉集』為相の項に「源氏系図雲紙高九寸三分」と見え、巻物皺から巻子本の断簡と知れる。
源氏系図においては、三条西実隆(1455〜1573)の撰んだ伝本が広く流布する。しかし掲出の切はそれ以前のもの、すなわち古系図と呼ばれる種類であり、『源氏物語』享受史研究に欠かせない資料。現在5葉ほど発見されている。
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伝花山院師賢筆 源氏物語歌集断簡 松尾切 南北朝時代写
金泥にて水辺の文様を描いた斐紙(縦26.9、横9.4糎)に4行書写、詞書は和歌より3字下げとし、和歌1首1行書。『源氏物語』中の和歌を抜き出し、簡略な詞書を付して歌集の体裁としたもの。ツレも含め下絵はすべて後描きである。物語関係の切としては珍しく特別の名を持ち、花山院師賢(1301〜1332)とは別人の筆であるが、そこからさほど下る時代のものではない。もとは巻子本。極札の右下隅「松尾切」の小さい墨書は、久曽神昇博士の書き入れであろう。空蝉の巻最後の歌を書き抜く。
(参考)源氏小鏡 安田十兵衛 明暦3年刊 袋綴3冊
美濃版絵入り、原装・原題簽を残す。整版本としては慶安版に続き、古雅な絵を入れた最初の版であり、明暦3年(1657)京都の書肆より刊行された。図は、空蝉と軒端荻が囲碁に興じているところをのぞき見る光源氏。
W狭衣物語−後期物語の典型−
『源氏物語』以降、平安時代末までに書かれた物語を「後期物語」と言います。源氏物語の圧倒的な影響下に多くの作品が生まれ、それぞれに独自の試みを行っていますが、筋立てのよさや洗練された作中和歌によって愛好されたのが、『狭衣物語』です。物語の古筆切は、古筆切全体から見ると決して多くはありません。その多くはない断簡のうちでは、『伊勢物語』と『源氏物語』が大半を占め、これらに次ぐのが『狭衣物語』であるところからも、読者の幅広い支持を想像することができます。
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伝久我通親筆 狭衣物語断簡 鎌倉時代前期写 台紙貼1葉 *
斐楮交漉四半切(縦17.9、横13.4糎)に癖の強い筆跡で10行18字程度書写。源通親(1149〜1202)は鎌倉時代初期の政界に重きをなした人物、掲出の切の筆者とは認めがたいが、およそ通親と同時代の資料であり、『狭衣物語』古筆切中最古のひとつ。いずれの断簡も巻3を写しており、他本と異同が大きい。掲出の切で言えば「ちかくはことに人もなきにひとりゐたまて」(7〜8行目)⇔「ちかうはことに人もさふらはねは」(内閣文庫本)の如くである。
17 伝冷泉為相筆 狭衣物語断簡 鎌倉時代後期写 *
左端に若干の余白ある斐紙(縦14.5、横14.5糎)を用い、1面10行16字程度に書写。金切箔・金泥下絵の小紙片に「鎌倉中納言為相卿」と墨書、これは古筆家の極札ではない。冷泉為相(1263〜1328)の筆跡とは認め得ないが、鎌倉時代後期の所謂「為相様」であり、端正な書きぶりの断簡と評価出来よう。『狭衣物語』巻2、冬の夜に狭衣大将が女二宮邸へしのびこむ場面である。「かげさやかにすみわたりてゆきす/こしふりたるそらのけしきさえわた/りたるも」と始まる本文は内閣文庫本から距離があり、古活字本系旧教育大本にきわめて近い。
(参考)狭衣物語 谷岡七左衛門 承応2年刊
袋綴16冊
本文10冊に『下紐』以下読解に便利な付録6冊を加えて刊行、挿絵の力もあってこの『狭衣物語』が江戸時代の流布本となった。初出は谷岡七左衛門版、田中理兵衛・三木親信等と刊行者が変わり、幕末まで同一版木を用いて刷られる。図は、伝為相筆断簡のすぐ後、女二宮邸内の風景(巻2下)である。
18 伝阿仏尼筆 金銀砂子装飾狭衣物語断簡 鎌倉時代後期写
軸装1幅
金銀砂子を蒔いた美麗な斐紙(縦15.3、横15.0糎)に10行15字程度書写。料紙右端に綴穴跡が残り、列帖装丁のオモテ面とわかる。『狭衣物語』巻4、狭衣大将が宰相中将の妹に語りかける場面で、諸本と字句の異同が多い。『新撰古筆名葉集』阿仏尼の項「六半 砂子紙源氏コノ外類切多シ 四寸九分」に相当。ツレは国宝手鑑『翰墨城』ほか10枚ほどが報告されている。なお金銀砂子蒔きの料紙を用いた別種の断簡もあって、判定に注意を要する。
19
伝蜷川親当筆 狭衣物語断簡 室町時代中期写 台紙貼1葉
唐紙風の四半切(縦25.6、横18.1糎)に11行24字程度書写、典雅でゆったりとした印象の古筆切である。掲出の断簡には極札を欠くが、ツレに付せられた伝称筆者は蜷川親当(?〜1445、連歌師智蘊として著名)であり、これに従う。親当と同時代の資料。ツレは普通斐楮交漉きを用いるので、唐紙風の料紙は珍しい。第3類の本文である。伝親当筆の切はすべて巻一に限られ、早い時期に巻一のみの零本となったものを分割したのであろう。
X栄花と大鏡−歴史をうつす−
「望月のかけたることもなし」と栄華を誇った藤原道長の時代が過ぎ、宮廷社会にかげりが見えはじめると、歴史への関心が高まってきたようです。摂関期の輝かしさを体験した女性ー赤染衛門と推測されていますーの手になる40巻の大作『栄花物語』、男性知識人によって書かれ時には皮肉も哄笑もまじる『大鏡』。この2作を嚆矢として、歴史を仮名で綴る作品が編まれました。平安時代から江戸時代まで続いた、息の長いジャンルです。
20 伝藤原家隆筆 栄花物語断簡(巻24わかばえ) 鎌倉時代後期写
台紙貼1葉
斐紙六半切(縦16.5、横14.5糎)に10行16字程度書写、枇杷殿における皇太后妍子大饗の記事であり、本文は現存諸本のいずれとも一致しない特異なもの。藤原家隆(1158〜1237)よりは一時代下ったころの資料であろう。
『栄花物語』の切は巻25・27に集中しており、掲出断簡のように巻24を写し、かつ家隆を伝称筆者とするのは、ほとんど唯一の例である。
(参考)栄花物語絵入抄出本 出雲路和泉掾元丘
江戸時代中期刊 袋綴9冊
流布本系第1種本を基礎に古本系第2種を参看して字句を整えたらしく、全40巻を要領よく抄出、目録・系図も備わる。公家風の版下にこまやかな絵を加えたところが大きな魅力となっている。図は、大饗にそなえて身繕いに余念のない女房たち。
21
伝冷泉為相筆 栄花物語断簡(巻12玉の村菊) 鎌倉時代末期写 軸装1幅
斐紙六半切(縦17.0、横15.3糎)に10行16字程度書写、左大将藤原頼通の妾永頼四女が所生の男児と前後して死去する記事である。伝称筆者冷泉為相とほぼ同じ時期の資料であろう。『栄花物語』の古筆切で巻20以前を写したものはごく少なく、掲出断簡のほかには2葉くらいしか知られていない。西本願寺本系本文に梅沢本系本文が混入した異本と評価されている。
22 伝冷泉為相筆 栄花物語断簡(巻27衣の珠) 鎌倉時代末期写
軸装1幅
斐紙六半切(縦16.6、横15.3糎)に10行15字程度書写、小一条院妃寛子・尚侍嬉子の逝去を語る。伝称筆者は21と同じだが、両者別筆。梅沢本系本文と富岡本系本文との混合本か。最終行末尾の紙面が荒れているのは、古筆切の見栄えをよくするために「かへし」の3字を削ったゆえである。
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伝尊円親王筆 葦手風下絵大鏡断簡 南北朝時代写 軸装1幅
金銀泥にて雁・霞・草等を葦手風に描いた下絵斐紙(縦30.3、横62.1糎)に『大鏡』巻6昔物語より鶯宿梅の佳話を抄出。巻物皺が見られ、元来は調度手本であったか。鎌倉〜南北朝時代に下絵装飾料紙を用い、『源氏物語』『狭衣物語』を散らし書きする作例は時折目にするけれども、『大鏡』は珍しい。国宝『大手鑑』中に伝称筆者を同じくする大型巻子本断簡を見いだすが、それには下絵なく掲出の切と無関係。尊円親王の筆跡とは認められないにせよ、類似の書風であり南北朝時代を下るものではない。
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